高知市内から車で東部に向かうこと約1時間半。たどり着いたのは、周囲を1,000m級の山々に囲まれた高知県安芸郡馬路(うまじ)村。面積の96%が山林、うち75%を国有林が占めるというこの小さな村は、かつては西日本最大の森林鉄道が走り林業が盛んに行われるも現在は衰退。しかし近年、当時林業の発展の中心に存在した「魚梁瀬(やなせ)杉」の木材在庫の発掘をきっかけに、KIDZUKIとともにあらたなプロジェクトが始まりました。第一回はそのプロセスを追ったイントロダクションストーリー。魚梁瀬杉の歴史を辿りながら、山に入り、木に触れ、銘木と呼ばれてきたこの杉の価値、そして未来を築くための対話を参加クリエイターとともに重ねます。
馬路村の一大産業の発展と衰退。魚梁瀬杉が辿ってきた林業の歴史
日本屈指の多雨地帯である馬路村は、その豊かな雨量と温暖な気候で良質な天然スギの生育に適した土地。ここで育ったスギが「魚梁瀬杉」で、高知県の県木であり、秋田、吉野に並び日本三大スギ美林としても知られています。中でも天然の魚梁瀬杉は、淡紅の色合いとダイナミックでありながらもキメ細かい木目が特徴で、節も少なく、高級建材として柱材や天井板などに使われてきました。
魚梁瀬杉がいわゆる「銘木杉」として全国的に知られるようになったのは、太閤・豊臣秀吉の時代にまでさかのぼります。秀吉が洛陽東山佛光寺に大仏殿を建てる際に、土佐藩主・長宗我部元親が魚梁瀬杉を献上したことが、元親の家臣、高嶋孫右衛門正重が記録した「元親記」に記されています。信州木曽、紀州熊野よりも、第一に土佐の魚梁瀬杉が選ばれていたということからも、土佐藩の優良な材木つまりは財源であったことがわかります。
その後明治時代に入ると、住宅用材などの資源として木材の需要が高まり、馬路村の山々の多くは林野庁管轄の国有林となり、営林署直轄の事業として魚梁瀬杉が伐り出されることになります。ゆえに木材の搬出が加速し、1911年(明治44年)には5つの町村を走る250kmもの国内最大規模の森林鉄道が馬路地区に開通。林業最盛期であった当時の馬路村は、映画館などの娯楽施設もあるほど、山で働く人々と活気で満ちていたと言います。
魚梁瀬ダム展望台からの景色。現在は観光スポットのひとつとして多くの人が訪れる。
しかし昭和20年代、戦後の復興による電力不足解決のため、全国各地の河川で実施した水力発電計画が馬路村に大きな影響を与えます。「魚梁瀬ダム」の建築案によって魚梁瀬地区の魚梁瀬森林鉄道の軌道、そして集落が水没し、木材の運搬が不可能になり、林業が崩壊するという事態に直面したのです。現在の魚梁瀬地区への集団移転及び、森林鉄道の代替道路の建設が行われ、1957年に魚梁瀬ダム建設に伴う森林鉄道は廃止、木材の運搬は、陸上輸送に切り替わりました。そして1965年以降、天然林の枯渇、外材の輸入そして国産材需要の低迷、ライフスタイルの変化、ゆず産業の発展等により時代とともに馬路村の林業は衰退していったのです。
長い間倉庫に保管されていた、天然魚梁瀬杉
戦国時代から続く林業の繁栄と衰退という歴史の中心に存在してきた魚梁瀬杉。馬路村の千本山には、樹齢100年~300年の天然・魚梁瀬杉が林立していますが、資源の枯渇により2017年に天然杉の計画伐採事業が休止、同年9月に最後の伐採が行われ、現在は伐採が禁じられた「保護林」に指定されています。今後は、魚梁瀬杉の人工林の育成に注力し、地球温暖化対策、水源涵養を目的に森林育成が続けられています。
こうしてかつての繁栄はなくとも、別の形で魚梁瀬杉の生息する森をまもり育てていく中で、「魚梁瀬杉の魅力そして未来に向けた新たな価値をつくっていきたい」そう魚梁瀬杉再興を決意するできごとが、2022年に訪れました。馬路村の森林組合が管理する倉庫に大量に眠っていた、天然の魚梁瀬杉の木材在庫に今一度焦点を向けたのです。
馬路村も森林組合も忘れかけていたというそれらは、魚梁瀬杉の根に近い部分。すべて板状や輪切りにカットされて2つの倉庫に積み上げられ、30年以上が経過していたといいます。林業が盛んだった頃に建材用にまっすぐな丸太が切り出されたあとの残った部分であるものの、輪切りのものは直径1m以上、板状のものは1.5m以上と、材として十分なボリューム。以前から気にかかっていたものの、よい使い道が見つからず、在庫として長らく保管されていました。
「かつてのように建材としては使えないとしても、この天然の魚梁瀬杉をこのまま倉庫に眠らせておくわけにはいかない。忘れられただ歳月だけが流れてしまったこの貴重な銘木の行き先を探り、そして本来の価値を伝えたい」
そう森林組合を中心に馬路村が一念発起。そしてその想いは、木というあたらしい価値に気づきながら情報発信を行い、「木の出会いの場」を創造するKIDZUKIの活動コンセプトと共鳴しました。木を中心として広がったネットワークから、木に関する課題と解決を循環させるためのプロジェクトが発足したのです。
2人のクリエイターとともにはじまる、未来の魚梁瀬杉を築くプロジェクト
これからはじまる「天然魚梁瀬杉発掘プロジェクト」。馬路村ではこれまでも、プロダクト開発や展示などさまざまな形で魚梁瀬杉の価値向上のためのプロジェクトを推進してきました。しかし今回の発掘を機に、魚梁瀬杉のために自分たちは何をすべきか改めて考え、KIDZUKIと対話を重ねながら少しずつプロジェクトの本質を追求します。
行き着いたキーワードは「魚梁瀬杉の活用事例の創出」。切り出された魚梁瀬杉材の活用方法を考えるため、まずはクリエイターを招聘するところからスタートしました。人によってさまざまな活用アイデア、アウトプットが想定される中、2人のクリエイターの参加が決まり、ともに馬路村を訪れ魚梁瀬杉と対面しました。
一人は、KIDZUKIコンセプトディレクターであり、トラフ建築設計事務所の鈴野浩一さん。KIDZUKIの活動を体現する存在として、また建築やプロダクトデザインの視点から、魚梁瀬杉の活用、そしてあるべき姿を考えていきます。
鈴野:「宝の山に対面したような気持ちです。僕が設計で携わる場所に、魚梁瀬杉の家具やプロダクトを設置する事例を作っていけるといいなと思っています。誰もが触れられる公共的な場所にも置けるとよさそうですよね」
二人目は、高知県在住の山師でありウッドアーティストの高橋成樹さん。同じ地元の木に関する課題解決と、自身のクリエイションの追求の両方向から魚梁瀬杉と向き合います。
高橋:「輪切りの状態で長年倉庫に眠っていたから、本来はもっと油分を含んでいる材なのに、乾燥しすぎている印象はありましたが、絶対いいものが作れると思っています。まずは手を動かしてすぐに作品を作ってみたいです」
短い滞在ではありましたが、魚梁瀬杉に触れながら、まずは来年の第一弾の発表に向けて早くも本プロジェクトのための具体的なアイデアを巡らせている二人。
「どうしたらこの天然魚梁瀬杉を活かせるのか。もともとは和室の建築材料でしたが、そういった昔の価値にこだわらずに、どうしたら新しい価値を創造できるのか。私たちも明確な答えがないからこそ、皆さんと議論をしながら幅広い視点で見出していきたいです」と本プロジェクトの発起人である高知県林業振興・環境部の谷脇勝久さん。
「魚梁瀬杉はこれまで、座卓やダイニングなどでしか使われてこなかったのが現実で、事業展開をしていく欲がない状態が続いていたということも本音です。だからこそ今回挑戦したいことが見い出せたら、ぜひそれを未来へつなげていきたいですね」と馬路村森林組合の組合長を務める清岡哲也さんも語るように、本プロジェクトチームの皆さんもこれまでの魚梁瀬杉の変遷を振り返りながら、新たな協働に想いを寄せています。
単に材料を消費しモノを制作するだけでなく、そこにどんな新しい価値を見出し、提供し、共感してもらえるか。今このタイミングでKIDZUKIが出会った魚梁瀬杉だからこそ、必要なすべきことがきっとあるはず。対話は始まったばかりですが、鈴野さんと高橋さんを迎え、プロジェクトは着々と次のステップへ。今回のイントロダクションを経て、以降それぞれの構想とプロセスのストーリーへと続きます。
天然魚梁瀬杉 発掘プロジェクト
プロジェクト概要および関連記事はこちら
PEOPLE
高橋 成樹
Naruki Takahashi
高知県生まれ。健康な森を育て間伐し木材を生産する山師であり、木を加工して作品を作るwood artist。両軸の活動を通して真摯に山や木と向き合い、正しい知識や情報を伝えることを目指す。
鈴野 浩一
Koichi Suzuno
トラフ建築設計事務所主宰、KIDZUKI クリエイティブチーム・コンセプトディレクター 。1973年神奈川県生まれ。1996年東京理科大学工学部建築学科卒業。98年横浜国立大学大学院工学部建築学専攻修士課程修了。シーラカンス K&H、Kerstin Thompson Architects(メルボルン)勤務を経て、2004年トラフ建築設計事務所を共同設立。